ずずめの戸締り
新海誠の作品は拗らせた青春ものみたいで嫌いだった。だけどこの作品はさらに嫌いになった。一線をこえたとても不躾で卑劣な作品だった。おそらく本人もこの評価を予想してた。プロの映画監督だし客観的に見れないはずがないのだ。だからこそこの作品は卑劣だと思った。
最初はファンジーのように物語がすすむ。そもそもすずめがイケメンを追いかけて廃墟に向かうシーンも出来の悪いファンタジーよろしく不自然なことが多すぎる。普通はイケメンを追いかけて高校を遅刻しないし、水溜りに足を踏み入れようともしない。水溜りに踏み入れたら靴がグチュグチュに濡れているはずがその雰囲気さえない。いきなり扉とかミミズとか猫とか、小学生を図書館でぼっちで過ごしたせいで低学年向けのファンタジーと現実の境界がわからなくなった中学生が書き始めた小説のような始まり。私はこの辺りあから「ああ、これは低学年向けにターゲットを変えた商業アニメなんだな」と心のギアを変えてなるべく楽しめるようにした。
その後も突然イケメンが椅子になったりアクシデントでフェリーに乗り込んで引き返せなくするみたいな雑な設定の連続で、リアリティや整合性を無視してる。ところがさすがはプロの映画なので音楽も画面構成もクオリティが高くてずっと見ていられる。東京に場所を移しても東京の街を完全再現していてその絵を見るだけでも価値があるくらいのカットがものの数秒で通り過ぎていく。おそらく背景のスタッフが数百時間をかけてかいた絵がこれでもかというくらい軽く消費されていく。リアリティと迫力があるからファンタジーだと思っていた大人も「これはお茶の水かな、四谷かな」みたいな感想をもちながら見続けることができる。
そしてクライマックスに差し掛かるにつれて徐々にこの話の全貌が明らかになってくる。すずめは東北の震災で母を亡くし、母の妹(環)に育てられた。椅子は母の形見。その母親との気持ちを整理できていない。それに対し環もフラストレーションを感じている。そして「すずめの戸締り」という題名は、それら全ての複雑な感情に区切りをつけるという示唆が含まれている。
庵野監督のシンエヴァンゲリオンは彼自身のエヴァに決着をつけるために作られた。諦めるのは彼自身だから「諦めるべき」というメッセージは許せる。人によっては応援したくもなると思う。だからつまらなくても批判する人は少なかった。だけど新海誠は震災経験者ではない。なのにこの映画は圧倒的な画力によってこれ以上ないほど高精細に震災風景を描き出し、それをもって失われたものを諦めることが正しいとする卑怯な作品だ。
この作品をそうと知らずに見てしまって震災のトラウマが蘇った人はたくさんいると思う。彼ら彼女らが失ったものは計り知れない。であれば当然諦めをつけるのは彼ら彼女ら自身であり、そのタイミングや方法をぬくぬくとテレビを見ていた人間が口出しする権利はない。むしろ非被災者である我々は被災者の、特に子供達に、もう取り返せない街や家族の扉を押し付けた側であって、まともな申し訳なさがあればテーマにすることすら憚れるはずだ。傷跡だらけの感情を悪戯にかき乱し、本人は飄々として次の作品を作る。数十年に1人のアニメ映画の才能に恵まれた人が出していい作品ではない。