NOPE
「Get Out」や「Us」で知られるジョーダンピールの新作。いやー見に行ってしまった。結論から言うとエンタメとしては面白くないけど解説で楽しめるタイプの作品。ただIMAXで撮影された最初のホラーということで、インターステラーやレヴェナントのような映像美があるのでIMAXを楽しみたいオタクは楽しめるだろう。
この作品は「見るもの」「見られるもの」の関係をつくっておいて、見られるものが見られることを拒否(NOPE)して反逆を起こすという構図を淡々と繰り返している。馬が暴れて人間に砂をかけるシーン、テレビドラマの撮影中にチンパンジーが暴れるシーンはその分かりやすい例だ。これは自分自身も例外ではなく馬がミラーボールで暴れるシーン、Gジャンを撮影しようと(目線がわからない形で)全面鏡のヘルメットをつけたカメラマンが襲われるシーンでは鏡の中の自分と「見るもの」「見られるもの」の関係をつくって反逆が起きる。
チンパンジーの撮影現場にいたアジア人の少年(ジュープ)だけが襲われずに助かりチンパンジーが仲間の印であるグータッチをする。アジア人はイエローモンキーと呼ばれていて映画中ではチンパンジーの仲間という扱い。少年は偶然垂直に立っている靴をじっと見ていてチンパンジーと目を合わせていないため鑑賞者にならずそれゆえ襲撃を免れる。ちなみにチンパンジーがひとしきり暴れた後に手話で「What happen family」というサインを出していて完全に仲間だと思っている。
この関係は宇宙生命体(Gジャン)と人間との関係にも反映される。助かったジュープは大人になり逆に見せ物小屋を始める。Gジャンを知った彼は馬を買ってGジャンを誘き寄せ、Gジャンを見せ物にしようとショーを開く。するとGジャンが現れ、観客もろとも吸い込んでしまう。見せ物にされていた少年が大人になってGジャンを見せ物にしようとして襲われるという構図。
一方主人公のOJとその妹は黒人という立場。映画の最初に乗馬の映像が流れるが、これは初めての映画として実在する有名な作品で、実業家のスタンフォードという人(スタンフォード大学を創立した人)が馬の動きを観察するために撮影させたものだ。このジャッキーは黒人だが彼の名前は記されてない。妹は最初の映画スターは黒人であり、不当に見せ物にされていたと主張する。
Gジャンに襲われた後、二人は逆にGジャンを撮影して一攫千金を狙おうとする。彼らもジュープと同様に、自分たちが見せ物にされていたことを顧みず、Gジャンを見せ物にしようと試みる。しかし撮影者はことごとく飲み込まれてしまい、最後に井戸の底にカメラを設置した遊具を使った妹だけが撮影に成功する。これは
“Beware that, when fighting monsters, you yourself do not become a monster… for when you gaze long into the abyss, the abyss gazes also into you.”
モンスターと戦う時には自分自身がモンスターにならないよう気をつけろ。深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいている。
というニーチェの一節へのオマージュ。ここでもやはり「見るもの」「見られるもの」を強く意識していることがわかる。Gジャンと目を合わせた時点でこの関係が相互に成立しどちらかがどちらかに食われるというわけだ。
「Get Out」や「Us」と共通してジョーダンピールは前提とされていた支配関係を壊すことでゾクっとするホラーを作り出している。Get Outでは「女性を支配する男性」を「黒人を支配する白人」に逆転し、Usでは「裏の世界を支配する表の世界」を逆転している。NOPEも同様に「支配」そしてその逆転がテーマだ。
が、今回はちょっとややこしい。この映画を「見るものは」だれか。そう、私たちだ。ジュープが「これからの1時間であなたたちはスペクタクルを目にする」と行った瞬間からちょうど1時間で映画が終わる。前2作では「ほら、おもしろいでしょ」といわんばかりに分かりやすい支配構造の逆転劇を書いていたが所詮スクリーンの中に収まっていて、我々はゾクゾクしながらも安全地帯から映画を鑑賞する。NOPEは支配構造を「見るもの」「見られるもの」という構造にすることで、「見るもの」の立場を避けられない映画の消費者である私たちに「支配構造が逆転して襲われる立場」を強制的に作るトリックが仕掛けられている。簡単に言えば「お前らSNSとかYouTubeで安全地帯からクリエーターの作品を消費してるけどいつかお前らを消費してやるからな」というメッセージだ。
NOPEはジョーダンピールがコメディアンとして感じていた「見せ物として消費される」構造への拒絶(NOPE)であり、その刃は鑑賞者である我々に向いている。